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掲載日:2011年8月6日

古民家の自力改修で見つけたもの
〜母を元気にする力と昔の人の知恵と思い〜

木下美紀さん 開催日:2011年6月18日(土)
会 場:コーヒー屋シュッツ
話し手:渡辺 南美さん(建築士)

目次


今建築士ということでご紹介いただきましたが、建築士としてではなく今回は個人的に自分の生まれた家を直したということでお話を聞いてください。

今日はレジュメと「すまい・We」26号をお配りしました。私はとなりにいます三浦さんともに「住環境相談室We」という女性建築士のグル−プをつくり住宅相談会を行ったり、通信「すまい・We」やブログで住まいの情報を提供したりしています。「すまい・We」26号は通信の最新号です。

「すまい・We」26号に載っています記事、「高齢者の今時の住まい」は三浦さんのお母様のことです。私の母は現在80代後半ですが、三浦さんのお母さんはそれより10歳年上です。三浦さんのお母様が元気でいて下さることは、私の母にもまだまだ元気でいてもらえるという私の励みになっています。

三浦さんが書かれているのは、お母さんが新しいマンション住まいで今時の設備に戸惑われている様子です。年をとると新しいことにはなかなかなじめないようですが昔のことは良く覚えていますし、身に付いたことは忘れません。このことは私が日頃、母と接して感じていたことでした。便利でなくても使い勝手が良く、長く馴染んだ物に接していることでこれからも母に元気でいてもらえるのではないかとの思いが今回、お話しする古家の改修の原点になっています。

1.実家の古屋(古民家)を今後どうしたらよいか

写真 *誰も住まなくなり、傷んだ昔の家を母が元気なうちに何とかしたい

実家の敷地内には母と兄が住んでいる母家と物置となっていた大きな古家、隣に以前、叔母夫婦が住んでいた家(今は物置)があります。となりは神社です。物置となっていたこの大きな古家で私は育ちました。4人兄妹の末っ子の私がこの古家を出て一人暮らしを始めるとすぐに父は古屋はそのままに、となりにポンと某住宅メーカーの家を建てました。30年以上も前の話です。子供達の将来(いい人を連れてかえって来る)のことを考えて建てたのではないでしょうか。

父はすぐに新しい家に引っ越しましたが、母が生活全部をそちらに移すまでに10年近くかかりました。父の所に嫁ぎ子供を育てながら姑や叔母夫婦やその他いろんな人の世話をし、苦労しながら過ごした古家です。荷物もほとんど残したままです。簡単には新しい家に引越しできなかったのだと思います。母が母屋に引っ越してからも古家の竈でずっとご飯を炊いていました。竈で火をたいていることで古屋の傷みも進まなかったように思います。しかし10数年前、父が病気になりあまり出入りしなくなってからは傷みはひどくなり、ツタに支えられ建っているのではと言った様子になってきました。そして、子供達はそれぞれ独立、父も隣に住んでいた叔母夫婦もいなくなりこの広いところに母一人になりました。母も年老いてきました。この古家と中に残っている物をこの先どうしたものか。母が元気なうちに何とかしたいと思うようになりました。

 * 母の「壊すのはもったいない」に秘められた思い

その後、帰郷した独身の兄が母と一緒に四角い箱のような母屋に住むことになりました。

実家の庭にはたくさんの木があります。隣は神社です。神社は立派な大木ばかりです。秋になると一斉に葉が落ち、母屋の平らな屋根は落ち葉で埋まってしまいます。掃除をしても追いつかず雨漏りがひどくなりました。直すのは無理と判断し、兄が母屋を建替えることとなりました。兄の意見は隣の古家を壊し、そこに新しい家を建て、引っ越しが終わったら母屋を壊すというものでした。

古家を壊すという話が出始めると母は「あの家(古屋)を壊すのはもったいない、もったいない。」と言うようになりました。母は昔から自分の意見は言わない人でした。父は大勢の兄妹の下から2番目でしたが、事情が有り、家を継ぎましたので母が姑や子供のいない叔母夫婦の世話や、たくさんの親戚の対応に追われてきた訳ですが、一番若かったため、自分の住んでいるこの古家のことでさえずっと遠慮し、自由にできなかったのではないかと思います。私が小学生の頃、学校から帰るといつも誰かがお茶を飲みにきていました。母は立ったままお茶を入れたり応対をしていました。最近、その頃のことを走馬燈のように母は繰り返し話します。「あの人はいつもお茶を飲みに来て、お茶菓子に文句を言ったり-----、」と。姑、親戚の叔母達、夫(私の父)、そして隣に住み最も母を困らせた叔母もいなくなり、今まで遠慮して誰にも言えなかったことがやっと言えるようになったのです。母の「古家を壊すのはもったいない。」という言葉の中には、もう古家のことで誰にも遠慮する必要はないということと同時に残したいという思いがあると感じました。

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2.残す決断(住めるように直す)

*母には病気に負けずに元気でいてもらいたい(母の暮らし)

古家は古民家と言っても立派な床の間があるような物ではなく、養蚕農家の家です。しかし太い柱と梁はりっぱです。兄が母屋を建替えるに当たり母の思いもありますので古家の柱と梁はそのまま利用し田の字形の古民家風の家にしてはどうかと提案しました。兄はスイッチ1つで何でもできるオ−ル電化の今時の家にしたいようですので話は全くかみ合いませんでした。それが4,5年前です。

そして3年前、母が突然病気で倒れました。医師からは「高齢で体力的に手術は無理です。自宅に帰って好きなように暮らしてください」と。母の病気には元気に暮らすことが一番の薬ではないかと思うのです。もし母が今時の新しい家に住んだら、多分スイッチ一つ触れず、何もしない暮らしになってしまうでしょう。母屋を建て替え、そこで母が暮らすことになっても、竈でご飯を炊いたり、布団を作り直したり、柱を磨いたり誰にも遠慮せず、好きなことをしてもらいたいという思いから、この古屋を直し残す決断をしました。直すことに決まると、母はとてもうれしそうで蓄えていた貯金など出せる物は全部出すと言ってくれました。この言葉からも母が古家を残したいと言う強い思いがあったことがわかります。

* そのまま住めるように直す(きれいにするのではない)

母と私で費用を工面すると言っても古民家再生ができるほどの費用はありません。そこで「きれいに直すのではなく、そのまま住めるように直す。」そして母の元気の為の改修ですからいなくなってから直したのでは意味がありません。「4ヶ月、長くても半年で何とかする。」という方針でスタ−トしました。私の夫はツタに絡まれ、今にも倒れそうなこの古屋を見て「この家にお金をかけて直すのはもったいないので、やめたほうがいい。」という意見でした。

しかし、私の日々の暮らしは、離れてはいますが母に支えられています。母が病気になり、いなくなるということは想像したこともありませんでした。母に元気でいてもらわないと困るのです。母の元気の為でしたら、お金がもったいないとかそういう思いは全くありませんでした。

住めるように直すプランをつくり工務店探しです。地元の大工さんのこともわかりませんので近くに住んでいる2番目の兄に改修の協力を依頼し、勤め先に出入りし、建築や造園など手広くやっている会社に依頼することになりました。まず、古屋に覆い被さっているケヤキの大木の伐採から頼みました。ところが職人さんが不慣れのようで、ずいぶん手間取っていました。家の見積もりとなりましたが、古い家の改修はやったことがない様子、全く話が進みませんでした。もう1社、別の工務店に。古民家改修の経験があるとのことでした。住めるように修理をしたいとプランを説明をしましたが、建物を持ち上げて基礎も作る見積もりを出してきました。新しく造る基礎と古い建物の接続の方法を聞きましたが納得できるものではありませんでした。それに予算的にも全く無理な話です。

その後、古い家の改修をたくさん手がけている誠実そうな工務店に出会いました。今まで直した家の写真も見せていただきましたが雑誌に載っているようなしっかりした古民家再生をしていました。こちらの事情もすぐに理解してもらうことができお願いしたいと思いましたが、やはり予算が問題です。工務店は新たに基礎をきちんと造り、耐震補強をしたいとのこと。やはり修理という形はとりたくないようでした。予算内で直せるように両側の縁側を全て取り払い家を半分くらいに小さくすることを勧めてくれました。そうすると家は新築のようにきれいで丈夫な今時の古民家になりますが、母が暮らした昔の面影はなくなってしまいます。母にとって新しい今時の家は必要ないのです。結局、お願いするに至りませんでしたが、将来またこの家を直すチャンスができたらその方にお願いしたいと今でも思っています。

そしてもう1軒、古民家再生と保存をうたっている地元業者にも行ってみました。予算はありませんと言うと、「フン!」と笑われました。その方は大学の先生と新し木材の利用方法を考えておられて、「この工法で改修すれば今後100年持ちますよ」と。でも、それは今の私達にとっては意味のないことです。その工務店はお金がない人の古屋(古民家)には興味がないようでした。業者選びは難しいです。

 

その後、たまたま隣の家の解体工事に来ていた大工さんが、古家を直したいという噂を聞き「なんで俺に頼まないのか」、と言っているとのこと。60代の大工さんです。そこで話をしてみると面白い大工さんでです。「こんな家は俺みたいな大工じゃないと直せないよ。」と言うのです。古い家のこと、養蚕のこと、いろんな昔の言葉もよく知っています。「じゃあ一度、古家を見てちょうだい」と言うと、ものの5分もしないうちにハシゴを持ってきて屋根に登り、「こりゃ直せるよと!」いうのです。私はうれしくなりました。話を聞くと予算内で何とかなりそうです。話も面白く「そのまま住めるように直す(きれいにするのではない)」と言う方針にも「良−く、わかった!」と。大工さんにも年老いたお母さんがいて私の母との会話も進みます。「この大工さんに頼むしかないかない。」と一緒に工務店探しをした兄と決断しました。大工さんもその気になり、まずは家に絡まったツタを剥がさなくてはと、早速、生い茂っていたツタの根をその場で切って行ってくれました。

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3.自力改修で知る昔の人(母)の暮らし

写真 * 骨組みの補修と設備は業者、後は自力で改修(その事情)

最初は大工さんにほとんど直してもらうつもりでした。「え、自力改修じゃなかったの」となるのですが、つくづく業者選びは難しいと思いました。

大工さんには「母の大切なお金を使うので材料を買うにも配慮をお願いし、また、母が元気なうちに直したいので4ヶ月で住める状態にして欲しい」と伝え契約を交わしました。骨組み、外回りの補修、設備、そして内部を仕上げ4ヶ月で住めるようにしてもらい、終わらなかった場合は残った部分は自分たちで仕上げていくつもりでした。

工事がスタートしたのは2年前の8月はじめのことです。周囲や中の物を整理し大工さんが枯れたツタを屋根に登って竹箒で落としてくれました。

そして出てきた家を見て驚きました。長い間ツタに覆われていたせいか、傷みは想像以上です。夫が本当にこの家を直すのかと言いましたが、一瞬、私も、本当にこの家を住めるように直せるだろうかと思いました。半分倒れかかっている様に見えます。トイレも昔のまま。水道も外に1カ所あるだけです。母は外の井戸で洗い物をしていました。柱と梁だけで壁もほとんどありません。周囲はほとんど雨戸で、はずすと100枚位ありました。しかし傾いてはいますが柱、張り、骨組みはしっかりしています。

                                                         

雨漏りがなおればこれ以上傷まないと工事は屋根から直し始めました。大きな屋根ですので下地からやり直すと費用がかかります。何回も重ね貼りをして雨漏りを補修してありましたので一番上の補修材だけ剥がしその上に新たにタルキを打ち付け新しい屋根材を葺きました。しかし8月初めから始めて、屋根が終わったのが9月末でした。今度は柱の傾きなどの直しです。大工さんは「柱は組んであるので傾きは直せないよ。」と言うのです。じゃあどうするのか。沈んだところを持ち上げるのだそうです。ジャッキで下がっている部分の柱を一本づつ持ち上げていくのです。

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下がった縁側は兄と夫が手伝い、ジャッキと丸太をテコのように使い持ち上げました。傾きもやり方がわかればかなり自分たちでできることがわかりました。外壁は木の横ばりだったのですが、大工さんは山から木を切ってきて製材し、乾燥させるために古家の中に並べました。根に近いこのあたりのいい木目の部分は建具に使えばいいと。反りが出ないように毎日の様に、板をひっくり返したり並べ替えたり楽しそうにしていました。また大工さんは私達にいろいろ教えてくれます。特に素人の兄にはいろんなやり方を教えていました。休憩時間も母とのお茶のみ話をし、他の職人さんとの話も盛り上がっています。いつ仕事をしているのだろうかと思った日もありました。要するに昔のやり方なんです。契約で4ヶ月と約束したはずでしたが仕事はできたところまで、お金はなくなった場合はお金ができたらまた来るから..というようなやり方で仕事をしてきたのではないかと思いました。母も元気にお茶入れをしていたので大工さんも私達が急いで直して欲しいとお願いした理由を忘れてしまったのかもしれません。そして一つ失敗は、ここまで終わったらいくらという契約にすればよかったのですが、「こうゆう家は何があるかわからないので予定通りには行かない」、ということで日当としたことでした。屋根が終わった時点でどう見ても4ヶ月で住めるようになりそうもありません。そこでお手伝いを頼み、家の骨組みの補修と1階だけでも年内に住める状態までにして欲しいとあらためて頼みました。大勢のお手伝いの大工さんが加わり何とか1階の床の仕上げと水回りの下地は終わらせてもらいました。

期限の11月末になっても結局は3−4割しかできていません。1週間だけ期限をのばし素人ではできない敷居や上がり框の移動などをやってもらい引き上げてもらいました。費用的にもそれが限界でした。その後何とか水道、ガス、電気工事を行ってもらい、12月30日に1階だけタタミがはいりました。

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仕上がっていない外壁などはシ−トや仮の材料で覆ってはありますが1階は住めるようになり、新年の準備を母を囲みこの古家で行う事ができましたし、母が元気で新年を迎えることができたのは本当に良かったと思います。母にとってもお茶を入れたり忙しい4ヶ月間でしたが母の生きがいにつながったようです。

* 自力改修で知った古民家の存在感と昔の暮らしと知恵 写真

私と夫、工務店探しを一緒にした兄とその息子(甥)で古家の自力改修がスタ−トしました。今まで自分たちでも工事をやりたかったのですが大工さんに遠慮していました。もう誰にも遠慮はいりません。途中で大工さんがいなくなり母は少し心配をしましたがそんな心配はすぐになくなったようです。毎週末になると楽しそうに工事を進めていく私達を見て兄妹が協力するのは嬉しいと言ってかえって楽しみにしてくれるようになりました。

まずは、ほとんど手つかずの2階です。私が暮らしていた頃はすでに養蚕はやっておらず物置にもなっていました。私は2階には殆ど上がったことがありませんでした。怖くて上がれなかったのです。しまってあるひな人形を取りに行く母について上がるだけでした。

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2階は間仕切りも何もありません。養蚕小屋は蚕棚を何段も積み重ねます。有効に使うために鴨居も敷居も全部はずれるようにできているのには驚きました。

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また、竈で火を焚くと2階の床にあいた穴やすき間から煙が家全体にまわり虫の駆除や家の耐久性を高めていたようです。2階の床には2ヶ所に囲炉裏状のものががありました。木でつくられた床下収納庫のようなもので、内側を粘土で固めてあり火を入れていたようです。今では考えられませんが、木造の2階で火を焚いていた訳です。屋根には換気用の小屋根が2カ所ありますが扉がついていて開閉ができます。大屋根の妻側も開くようになっていて風や煙が抜けていくようになっていたのです。昔の人の工夫や知恵は驚くばかりです。今とは比べ物にならないくらい不便な時代だったのではないかと思いますがすばらしい知恵と工夫で生活が成り立っていたのだと感じます。

天井には立派な梁が縦横にかかっています。二股になった木を自然のまま使った面白い梁もあります。

掃除をし、床を直し、古い塗り壁の上に板を張りました。崩れ落ちた壁の土は保存し、塗り替えたいと思いましたが技術的にも時間的にも難しそうなので補修や竈造りに使いました。新しいタタミを入れてもらうと見違えるほどきれいになりました。

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* 自力で改修する楽しさ−−何も捨てない、工夫すれば何でもできる

養蚕をやっていた頃は、夏は1階でタタミを上げ床板にゴザを敷いて暮らしていたようです。その畳の下の板は磨くと黒く光っています。傷んでいますが使えそうな物は床板として小上がりや廊下、縁側に張りました。工事前に伐採したケヤキの大木は製材し、乾燥までしてもらい床材にしました。部屋には新しい板を大工さんに張っていってもらいました。兄は大工さんの張り方をよく見ていました。半端で残っていた板を畳敷きの部屋のタンス置き場にする部分にやりくりして張ってくれました。几帳面の兄が見よう見まねで張った床は木材の乾燥で、隙間は少しありますがとても上手に張れていています。張ってから1年以上経ちますが大工さんが張ったところよりきれいなくらいです。

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1階の外壁も自分たちで仕上げることができました。1枚ずつ金槌で釘を打って留めていきましたが大工さんが言うほど大変ではありませんでした。

私達が始めてからはどんどん仕上がっていきます。大工さんは何を手間取っていたのでしょうか。工事をやり出すと楽しくなっていきます。いろんなやり方も浮かんできます。自分たちでは無理と思っていた工事もやってみるとできるのです。また、何かに使えるかもしれないと解体した木材を保存しておくと使い道はいくらでもあるものです。いらない物が使える材料になっていきます。

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母が使っていた戸棚ですが傷んで家の中に持ち込むのは無理なので薪の置き場にしました。戸棚を上下に分け、はずした雨戸の敷居を添えて、雨戸の屋根をつけました。

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古家の玄関はの4枚引き違い戸でした。上部は障子、中間はガラス、腰から下は板張りです。形が残っていた1枚はガラスのわれた部分に古いポストを組み込み玄関脇にたてました。その他の2枚は使えそうな上半分だけ切り取り組子を追加し、2枚を一体にして面格子を造りました。写真の左のポストのついた格子と右の面格子は同じ玄関引き戸でした。

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落ち葉が多く、軒の雨樋はすぐ詰まるので、人が通るところ意外はつけませんでした。古家の屋根の一部に使われていた昔の瓦を雨だれ受けにしました。古い物は昔の人の思いが詰まっているせいか粗末にできませんね。役目が終わっても違うところでまた新しく納まる場所が見つかるものです。廃材置き場からさがした古材が利用できると嬉しいものです。費用もかからないのでなおさらです。

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4.古民家は何かを持っている!

* 母を元気にする力、母を現役に戻す力 写真

10年くらい前まで母はこの3連のかまどを使っていました。真ん中は焚き口がなく保温に使っていたようです。もう傷んで使えなくなっていたので壊して位置を変えて兄が新しい竈を造りました。少し小さく2連の計画でしたが母も以前ほどは使わないにではと思い、うち一つはピザ窯になりました。竈づくりは初めてですが兄がいろいろ調べ作り上げました。

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このかまどができたとき「おばあちゃん、かまどができたからご飯を焚いて!」と母に声をかけると、 テレビの前でのんびりすわっていることが多くなった母が「そうかい!」といってしゃっと立ち上がって、「小さい釜でいいね!」と言って釜をを取り出し、しゃしゃしゃっと米を研いで、「水加減はこのくらい」と手で量り。母に計量カップはいりません。私たちには難しい竈の火もすぐにおこせます。炊き方も、始めちょろちょろ中ぱっぱなどと、気を使いません。はじめからふたを少し開けておくのだそうです。どんどん薪を燃やし、水が無くなったら竈の火を落とし蒸らします。このご飯がやわらかくてとてもおいしいんです。母はこのかまどでお粥もおこげも煮物も何でも作ってきました。電気釜の方が勝手がわからず使いこなせないのです。

また、障子貼りの時も声をかけると母はすぐに来てやってくれました。最近の大きな障子紙より昔使っていた巻物状になっている障子紙のほうが母は得意です。私もそのほうがずっと貼りやすいことに気がつきました。

母は柱を磨きたい、布団や座布団を直したいと言います。炭づくりや薪集め、古家のまわりを周りながらの草取りも良くやっています。何故か古家では母のやりたいことがたくさんあり、元気なのです。

* 私が住み続けたい−−火を使い知恵を使うエコな暮らし(地震があっても負けない)

夫は改修につきあわされた感じだったのですが、今では休みになると、古家の改修が当たり前のようになっています。次は何をやるのと言います。疲れた時には(冬ですが)工事はあまりせず、1日中、竈や練炭コンロで火をたいて過ごしたこともありました。火は見ていてあきないのです。

火を使う暮らしはとてもエコだと感じます。少しの廃材でご飯が炊け火を消した後は炭ができ、また利用できます。練炭コンロは1つの練炭で一日、保ちます。風窓を開けるとお湯は沸騰しますが閉めておくと沸騰せず、ずっと沸いた状態になっています。お湯がいつも使える暮らしはとても便利です。電気ポットより意外に使い勝手がよく、停電しても大丈夫です。練炭は回りに上から落ちてくるものがなければだんだん消えていくので安全です。

火を燃やすと二酸化炭素が..と思いますが上手に使えば無駄がなく、暖もとれます。伐採した木をゴミに出して燃やしたり、遠くで発電した電気を運ぶよりずっとエコのように思うのですが。地震で停電になっても竈とキャンプ用のランタンでもあればあわてることはありません。今では私と夫そして一緒に直した兄と甥の週末の居場所になっています。毎週、飽きもせずに工事をしている私達を見て母はとても嬉しそうです。居場所もできたことでもしものときには母の介護もいつでもできます。 エコな暮らしをしながらずっと私が住み続けたいと思うようになりました。

* 古民家には人を引きつける何かがある−−直し続けたい 写真

家を直し始めると飽きません。自力改修を始めて一年半、未だに週末を利用して改修は続いています。10年くらい平気で続けられるでしょう。日曜大工が好きでしたら、こういった古民家は延々と趣味でやっていけると思います。きれいになるのがとてもうれしいです。ひとつ何かが形になると、次の意欲が湧いてきます。昔の人の知恵や思いを発見すると得をしたような気になります。古い家には人を引きつける何かがあるのですね。

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倒れそうに見えた古家は骨組みや古い屋根、土壁はそのままに補修をしました。今はこんなふうになっています。「一見、変わったように見えるけど、中は真っ黒のままで何も変わってないのよ」と母は笑いながら近所の人に嬉しそうに説明しています。

この垣根は伐採したケヤキの枝を使っています。まだ工事は続きます。母も元気でお茶を入れてくれます。

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(質問)

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Q  費用はどこが高かったのですか。

A  解体せず古い屋根の上に新しい屋根を乗せましたが、屋根が大きいので費用がかかりました。古い建具を使いましたが一部はサッシュをつけたこと、水周りなど設備や公共下水道への接続等は費用がかかりました。それ以外は費用はかけられなかったので、解体した物など使えそうなものは自分たちで補修して使いました。

Q  養蚕をやっておられたのですか。

A  昔はやっていたとのことですが、戦争の際、桑畑を取られて養蚕もやめ、今のところにこの古家を引き家で移動したと聞いています。しかし、家族の使う傘、帯などは姑に作ってもらったことがあると母が話していました。母は着物を染物屋さんに出し染め変えてもらっていました。養蚕をやっていた頃ののおつきあいも残っていたのですね。

Q  耐震補強はされましたか。筋交いとか。

A  多少の補強、かべを増やしたりはしていますが、今で言う耐震補強はいっさいやっていません。建築士としての考え方からは縁側をとって補強して壁をつけることもできましたが、そうすると今時の家になってしまいますので、それはやりたくありませんでした。大きな地震が来たらかなり傾くだろうけど、組まれているいえなのでぺしゃんこにはならないだろうと思っています。今回はそれで良いのではないかと言う考えです。耐震補強は基礎からやり直さなければなりません。その費用はなかったと言うこともあります。あくまでも住めるようにするリフォ−ムです。古い柱、梁は全く手を加えていません。3月の地震のとき、母がすぐに中を見に行ってくれました。母屋は物が落ちたけれど古家は何も落ちたものはなかったと言っていました。傾きが増した様子もありません。もっと傾いたらつっかい棒をして、自分たちで直す気持ちでいます。

Q  断熱材は。

A  全く入っていないです。冬は一日中、竈や練炭コンロに火をつけておき暖房にも使いますがとても寒いです。でも夏は涼しいです。

Q  古民家の引き家もあり得るのですね。

A  今でも結構やっているようです。インタ−ネットなどでさがすと古民家のそういうホ−ムペ−ジもなどもあり、建物が移動していく様子を見ることができます。

Q  シロアリ対策は。

A  湿っぽい部分には出ていたようです。床下は風通しが良いので注意して観察しながら見つけたら駆除剤をまくことにしています。

Q  200坪くらいですか。

A  1階が50,2階が30、合計80坪くらいです。大昔はもっと大きかったようです。叔母が住んでいた隣に残っている家もこの家から切り離した物のようです。50年くらい前にリフォ−ムしており、建具などこの古家の物より新しいのではずしてきて利用しています。建具の高さなど同じなのでそのまま使えます。

Q  暖房は薪ストーブ一個あればいいですね。冷房には工夫がいりますね。

A  この古家は南北にたっており風がよく通ります。雨戸を開け広げておけば、どんどん風が通ってゴミまでとばしてくれる、とは母は言ってます。去年の夏は2,3日寝苦しいときがありましたが、扇風機で間に合いました。冬はスト−ブでもあると良いのですが家中暖めるのは難しいですね。   また煙突の掃除が大変だと使っている向かいのご主人が言っていました。今度の冬は兄が造ってくれたピザ釜を暖炉がわりに使うのを楽しみにしています。

Q  自家に問題があり、リフォ−ムを考えています。

A  ご心配なことがありましたら、私達の活動で無料の住宅相談室を行っていますのでご利用下さい。
(渡辺さん 048-661-0200 三浦さん 048-885-7853)

(終わり)

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<スタッフ>
テープおこし:谷口正
HTML制作:山野井美代
お問い合わせ:  NPO「大人の学校」
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