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掲載日:2012年1月4日

赤面恐怖症と共に50年〜それでも結婚歴3回〜

澤山 強さん 開催日:2011年11月19日(土)
会 場:コーヒー屋シュッツ
話し手:澤山 強さん (元スクールカウンセラー)

目次

はじめに

「大人の学校」の「さいたま寺子屋サロン」のことを知りまして、自分でも特にお話しできるようなことを持ち合わせているわけではないのですが、本当は恥ずかしがり屋で内向的で小心翼々とした人間で、しかし同時に、矛盾していますが、目立ちたがり屋という性格で、こんな自分でもお役に立てることがあるかも知れないと、今年の春に世話役の方とお会いしました。そうしたらすばらしいネーミングにしていただきました(正直ギョッとしましたが)。

表題にあるように結婚を3回しています。最初は30歳の頃、小学校の教員時代に音楽の教師と出合い結婚しました。しかし妻が胃ガンになって娘が3歳の頃に亡くなり、その結婚生活は終わりました。

2回目は保護者の方の紹介だったのですが、<手>を出してしまったので、責任をとらねばならないと思い結婚しました。その頃は田舎から母も上京して娘の世話などやってくれましたが、いろいろあって2年くらいで終わりになりました。これが37,8のころでした。それから20年、58になるまで娘と母とで暮らしてきました。58で3度目の結婚をしました。ようやく落ち着いたかなと思ったのもつかの間、本年(2011(平成23)年)8月に解消となりました。

赤面症と俗にいわれている症状は、森田さんという神経症の先生が「ヒポコンデリー」(心気症)と呼んでいるものです。森田先生の療法についてはまた後でお話しします。

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1.幼少時

 

心配性の気質と関係があるかどうか分かりませんが、非常に複雑な家庭環境に育ちました。出生は福井市の隣町森田町(現福井市森田町)で、絹織物の羽二重で有名です。母は織物工場で工員として働いていました。その間私は藁で作られた赤ちゃん入れに入れられてあやされていました。そういう幼少時の環境なども感じやすい性格を形作るのに影響があったのかも知れません。

母は結婚して離婚した後でした。私の義兄は15歳くらい年上ですが、父親も違うようです。これは高校生となった頃戸籍謄本を取り寄せたことがあります。その際ちょっとショックだったのですが、父の名前が義兄の父の名前になっていました。私たち母子3人は父親の家の近くに住んでいたのですが、夜だけ訪ねてくる人が父親と思っていました。正直どちらが実父か分かりません。妹の話では、私と妹は同じ父親で、私が父親と思っている人が実父らしいのです。義兄は時々私たちの家に来ていましたが、私の記憶では義兄と一緒に住んだことはありませんでした。

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2.小学生時代

小学生の頃は、L字形長屋アパートで生活していました。そこは父親宅まで徒歩5分位の距離にありました。ある時目が覚めると母親は不在で、蚊帳の中で生まれて間もない妹と二人でした。1953(昭和23)年6月、福井大震災が発生しました。大震災は小学校入学後の6月なので、このアパートから小学校に通っていたことになります。その後父親宅から1分もかからない質素な家に移り住み、高校までそこから通いました。

父親宅には成人していました義兄と義姉が住んでいました。時々母親と義兄が「大立ち回り」を演じていました。母は手足のあちこちに紫のアザを作って帰ってきました。私は怖くて現場を見たことはありませんが、角材でやり合ったんでしょうか。

こういうことも世間にたいし恥ずかしさとかうしろめたさで気にしたり、苦にしたりしました。近所の方はどちらかというと義兄側を支持する気配でしたので、よけい気になりました。このようなことが生育上影響を与えていたのだろうと思われます。

当時近所に歯科医のH先生という方がおられました。その先生は世間では「ヤブ」といわれていまして、繁盛はしていませんでした。民生委員をやっておられましたが、私たちは生活保護は受けていませんでしたが、生活の優等生ということで表彰につなげてくれたりして面倒を見て下さいました。当時私はその先生を馬鹿にしてしているような低く見ていたような所がありました。今から考えるとその先生の存在はありがたかったと思い出します。

小学校は当時の中学校の校舎体育館に間借りする形で授業が行なわれました。1,2学年時は問題児で、机のフタで同級生に乱暴したり、下級生をいじめて教師から注意を受けた記憶があります。

小学校3年生の頃、担任がH先生(女性)になりまして、漸く私の存在を認めて下さった記憶があります。一人親同然で貧乏だったので、習字の道具もろくに揃っていないところをこの先生が優しく親切に手ほどきして下さったことを覚えています。やっと皆と同じ世界に入れた感じを持てたと思いました。それまでは引っ込み思案の様な、遠慮の様な気持ちで学校生活を送っていました。勉強も漸く軌道に乗り始めました。

寺小屋の一コマ

神経症の状況を示すことが小学校でありました。確か5年生の時だったのですが、学芸会のクラス演目で「猿酒」と言う劇が演じられました。Y先生は私を主役に抜擢して下さったのです。言い渡された私は台本の台詞の多さに驚き早速辞退を申し入れました。だが聞き入れてもらえず続行して何とか無事終えました。このころから少しずつ小心で、繊細で心配性の気配が出始めて来た様な気がします。

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3.中学生時代

中学生時代になっても、母親と義兄の「大立ち回り」は続いており、周囲の人の一部から「安眠妨害だ」などと非難され、そのことで非常に気をもみました。このころはまだまだ「赤面恐怖症」という形での悩みや困ったことと言う認識は生まれていませんでした。引っ込み思案とか恥ずかしがり屋という兆候はありましたが。小心で心配性でした。

高校進学になって家が貧乏だったので普通高校は諦めて商業高校を受験することになります。普通高校受験が怖かった事も事実でした。普通高校受験だったら商業高校受験時程の点数獲得は無理だったかも知れません。赤面は問題にならなかったのですが、水面下では心配性が顔をのぞかせていたことと考えられます。

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4.高校生時代

クラスの議長を務める関係から保健体育の時間には必ず職員室の担当教師のところに出向き、その時間の指示事項を尋ねる決まりになっていました。職員室の担当教師を尋ねる段で赤面もさることながら唇がわなわなと震え、しどろもどろで教師とやり取りをした記憶があります。この状況の連続でした。

生徒会の会議で会の司会進行を務めることがありましたが、やはりくちびるは震え、ねじれ大汗をかきながらの口調であったことが思い出されます。クラスの会の司会進行を務める場合でも同様でした。

このことは自分でも苦にしていました。何とかしたいとの思いで弁論部に所属して努力することにしました。先輩でうまい人もいました。自校や他校で弁論大会を開いたりしましたが、結構やじるんですね。そのやじりがまたかっこよくて、そういうことにも憧れたようです。学校での大会はもちろん積極的に参加して、全国大会へも出かけました。自分としては勇気というか、人前に出ても平気になりたいとの思いがありました。

赤面とは関係ないとはお思いますが、当時の小心さ、感じやすさを表すこととして思い残されていることは、2学年の時に(このクラスは入学時から卒業時までクラス編成替えは一度もなされなかった)、私は福井市の隣町の田舎から通っていまして当時クラス議長でしたが、市内の同じ中学校から集団で入学して来た形のボス的女子生徒が、日常的に清掃時など聞こえよがしに議長の私を責めたり、攻撃、非難する様な会話を女子にしている、と聞き取れたので担任に相談しました。担任はクラスの女子生徒だけを放課後に残して事の真偽を確かめて下さったようです。結果はその様な事実はなしと言う連絡を担任から受け取りました。清掃中一緒に行動しながら聞いているので、単なる空耳であったとは思われません。でも他の女子生徒にその後確かめたことは一度もないので、私にとっては真実は「藪の中」です。その後長くこのことでこころの傷を引きずってきました。

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5.就職1年目

高校卒業後から11ヶ月、総合食品商社(株式会社明治屋福井出張所)に販売員で勤めました。大阪の「日商」(現材の日商岩井)と名古屋の日本鋪道株式会社(現在の株式会社NIPPO)の2社を受験するも不合格になり、焦って職種も吟味せず駆け込み受験して合格した経緯があります。

職種は販売員でした。実際の内容は、個人消費者宅への食品、調味料、飲料などの御用聞き及び配達、2輪車および3輪軽自動車による食品、酒類、調味料の配達および販売、トラック、オート3輪車に添乗しての配達補助でした。問題は当時地方デパート「だるまや」(その後大手デパート大丸の系列参入?)への食品配達でした。

デパート1階の食品売り場へ味噌の袋詰めを配達する業務が時々ありました。業者の入場門で商品チェックを受けて、品物を売り場の店員まで届けるのです。その行き来の途中では、「最高」に赤面している自分を感じて、自分にとっては大きな、大きな苦悩になっていました。悪い事にその売り場には好意を抱いていた高校のクラスメイトの姉が店員として働いており、時々顔を合わすことがあったのです。恥ずかしさ不甲斐なさが入り混じって「最高」の赤面をしたことは相違ないと思われます。それは学校での職員室や生徒会の次元ではなくて、もっとひどく赤面していました。

また酒屋と取引がありバーやキャバレーに納めていましたが、電話注文があったことを何度か忘れてしまい、小さなバーのマスターに謝りにいったこともあります。

ちょっとした甘味処のような店に納品していましたが、ビール2ダース入りのカートンは当時木製でした。木製ですと釘付けで弱いところがあったりして、ある時それを店に飾ってあったケーキにぶつけてケーキを台無しにしてしまいました。店主や支店長から怒られて、そこは11ヶ月でやめてしまいました。

その後お得意さんの紹介で、大阪の製菓会社、戻りまして会計事務所に勤めました。私はすぐ女性に好意を持ってしまう質で、勤め先の先々で好意を持った女性がいました。しかし交際するところまではいたらず退社していました。

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6.大学生時代

周りの人はあいつはダメだということで相手にしてくれなくなりました。もう自分で道を開くしかないと思いました。それであてはなかったのですが上京します。目黒にある旋盤製造会社に入ります。そこには腰掛け的に4ヶ月だけいました。

その間に大学受験し、東洋大学に受かりました。管財会社の学生社員(ビルの夜間警備員、清掃員)を務めながら大学へ通いました。

日本橋の江戸橋に職場がありました。日本橋から大学(文京区白山)まで当時の路面電車(都電)に乗り通いました。路面電車の車内でも赤面する場面はあったと思います。警備員室は朝になると明け渡すことになるので、自分の居場所が無くなります。くつろげる所がないんです。そのようなことで神経的にまいってしまい、東京大学付属病院の精神・神経科に1度診てもらいました。また大学までの途中にあった順天堂大学付属病院精神科でも受診しました。その当時になり赤面恐怖症を主とする神経症(ノイローゼ)様の症状が前面に出てきたようです。

そのような状況ではありましたが、高校時代の弁論部に入ったように、自分を奮い立たせようとして、べ平連(ベトナムに平和を市民連合)のバッジをつけ、平気なんだという自分の気持ちを示そうとしました。

赤面恐怖症では、逃げ場がない状況になると赤面が起こるということが予感されるのです。私の場合、書店のレジ、銀行窓口など閉塞的な場面では特にです。前後左右どうしようもない、という思いが一杯になります。退散したいけどできない、という所で赤面が出ます。他の人も並ぶ、という所でよく起きるようでした。

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7.森田療法との出会い

赤面恐怖症で呻吟している中で出会ったのが、日本を代表する心理療法の1種である森田療法でした。森田療法の基本的な考え方は、「さかしら」のこころを捨てて「あるがまま」つまり「事実唯真」(じじつ たたまこと)です。無理に自分の意志を抑えるのではなく、あるがままを大事にするということです。どうしても気分が良くなってから物事に着手しようと考えがちですが、この療法では物事に着手しているうちに気分が変わり好転してくると言うものです。

また、ある仏教のお経の「随所に主となる」と言う文言を受けて、いわゆる「KY」と言う様な周りに気を遣いすぎるのではなく、自分の気持ち、感情に素直に行動すると言うものです。勿論最低のTPOには配慮することが暗黙に求められていると考えられます。

私は森田療法に出会ったことに依り、今までのともすれば観念的な理論先行とも言える考え方に気づきました。私のきれい事的な考えを反省させてくれました。それ以来赤面恐怖症を離れても、これまで私の生活上、人間関係上、仕事上の基本的な考え方、心理的基盤・コアとなりました。

カウンセラーの仕事をしていますが、森田療法の技術的側面より、生き方の指針としてカウンセリングにもつながっています。私の赤面恐怖症の経験があったからこそ、それが原点となり、森田療法に出会い生き方の基本を知り、心理学や精神医学などにも目が開かれたのだと確信しています。

教員時代には教育相談という仕事もありましたが、私は赤面の体験者として、一人の教師がある面ではカウンセラーで、別の面では叱責したり怒ったりする役割が両立しがたいという気がしていました。ですから教員時代には教育相談には手を染めませんでした。

教員を定年になって、大学院で臨床心理学を学びました。65歳で嘱託もやめ、埼玉県や神奈川県で高校のスクールカウンセラーを経験し、また臨床アカデミーという所でカウンセリングの仕事に携わっております。職場向けのカウンセリングも進めるようになり、小・中学校、特別支援学校、高校などの教職員を対象にした仕事も進めてきました。ここにも赤面恐怖症、ノイローゼ、などの克服の経験を生かしています。相談相手の心理に迫ることができるのではないかと感じています。

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8.赤面恐怖症を引きずりながら

その後も秋から春先までは特に赤面しながらの生活が続きました。森田療法では、「逃げ腰の心理」と言って、回避、逃避のこころを指摘していました。

漸く赤面恐怖症がそれほど気にならなくなったのは、50歳を過ぎてからかなと思い出されます。加齢とともに心身ともに要するに鈍ってきた証拠かも知れないと思っています。

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(質疑応答)

寺小屋の一コマ

Q  他の人が見て「この人は赤面恐怖症の人だ」とわかるのでしょうか。

A  自分で考えているほど赤くはなってないようなんですが、自分の中では本当に真っ赤っかになっている気持ちです。

Q  赤面恐怖症になる背景としての澤山さんの生い立ちは特殊なんでしょうか。

A  母親は愛情をかけてくれたと思います。騒音のする工場のすぐ隣で幼児期を送ったことが落ち着きのない繊細な性格を形成したのかも知れません。母親と義兄との争いによって近所、世間への恥じらい、肩身の狭さ、敏感さが養われたかも知れません。

Q  赤面恐怖症の体験をエネルギーにして、人生の転換を図ることをされたポイントはどんな所にあったのでしょうか。

A  早稲田大学の心理学の本明 寛先生がある本で、「内向的な人は潜在的エネルギーを持っている」と書いておられるのを読みました。大阪の会社で働いているとき、社長から「お前は覇気がない」といわれたのです。でも教員になってから同僚から「お前は2枚腰だ」といわれたことがあります。ねばり強さ、我慢強さがあるということかなと思います。持続力、継続力はあるのかなと思います。小学生時代読んだ、弱者を応援するような一茶の句に惹かれたのも、自分の中に「今に見ていろ、俺だって」という気持ちがあったのではないでしょうか。好奇心旺盛でいろんなことに挑戦しようとしてきました。教職を退職後、教育相談員になるため数え切れないほどの所に採用試験を受験してきました。受かったのは数ヶ所です。今年古希を迎えましたが、そんな年でもすくい上げてくれる所があるんですね。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるではありませんが。そういうことも含め学生に還元したいですね。

Q  実のお父さんとの交流は。

A  夜だけ来ていて、時々こたつで話したこともあります。日雇い農夫のような仕事をしていました。畑や競馬場に一緒に行ったことはあります。しかし父とだけで、母が一緒ということはありませんでした。長じて進路相談などができなかったことは、何かが抜け落ちたような感じです。父親像を形成するときが無いまま成人したので、成人して最初のころは、父親とか男の生き方などがよくわかりませんでした。

Q  就職後、大学受験しようと思ったのは。

A  いろんな人の世話で職を得たのに短期間でやめてしまい、「こいつはダメだ」と思われてしまったのではないか、という意識がありました。また以前青年団の団長が「あなたは教員に向いてますね」と言ってくれたことがありました。それで教員になろうかなと思い始めたわけです。

Q  教育実習で丸刈りというのは。ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)のバッチをつけたのは。

A  東京都葛飾区の高校に教育実習に行きましたが、なんかこう変身願望があったのでしょうね。多少目立っても良いから自分を勇気づけるとかの気持ちですかね。学生になめられないように、と言うような気持ちではありませんでした。 バッチは肝試しというか、これを付けても自分は大丈夫だ、付けるだけのものはある、ということを自分に言い聞かせたかったのだと思います。バッチにあやかって自分も平気になろうとしたのです。

Q  もう今は赤面症は克服されたのでしょうか。

A  冬場になって暖房が入ったりすると出やすいんですが、さすがに慣れてきまして、赤面してるなということは時々ありますが、もうどうでもいいやという気持ちになっています。 離婚後最近婚活を始めました。また社交ダンスも始めました。愛唱歌を楽しむ会もやっています。

Q  普通だったら引きこもりになりそうなのに、すばらしいですね。

A  好奇心が旺盛で、欲張りなんです。内向的な人は欲張りなんです。ある種のパワーがあるようです。

Q  娘さんとの関係は。

A  最初の配偶者との子供ですが、大学院入学試験合格直後の時「妊娠した」と告げられました。将に青天の霹靂でした。話し合った結果、娘は大学院をやめ家庭を持ちました。娘は私の3度目の配偶者には好感をもっていない様子でした。できちゃった婚にもかかわらず時々けんかしては私に電話してきていました。私もいい加減頭に来て「いいかげんにしろ」と怒鳴りつけてしまいました。そうすると娘が切れてしまい、その後faxや電話でひどいことを言って恫喝してきました。これは私や3度目の配偶者には心の傷になってしまったことでしょう。娘は今近隣の町に住んでいますが、音信不通の状態です。私の中では娘は遠い世界の存在になってしまいました。

Q  女性に優しくてチャーミングだからもてたんですね。表裏が無くて真心がありますね。

A  そんなことはないです。恥ずかしいことばかりですが、なにかしら皆さんのお役に立てばと思いまして。大学時代に友人に「お前の言ってることは、冗談が本当になり本当が冗談になってしまう」と言われて、そういう所があるのだなと感じました。また小学生の時、担任に「澤山は表裏がある」と通信簿に書かれてトラウマになり、一生心に銘じようとしました。飲めないんですけど、酒を飲むようになってから、「飲んで態度が変わるようになっちゃいけないよ」と言われたこともあります。これらもこたえました。

(終わり)

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