掲載日:2012年7月15日
お題あらためまして、三好草平と申します。今は合唱の指導と合唱連盟の仕事を、埼玉や東京でやっております。
普段から人前で話すことには慣れていますが、あまり自分のことを話すということはしませんし、特に今日は両親もきているので、両親の前で自分のことを話すのは非常に恥ずかしい、という思いもあります。(よくしゃべる息子なものですから、寺子屋サロンで話してみたらといいました)。
気がつけばいつのまにか「うた」を生業にし、ずいぶんうたをやっているなということで、私とうたとの関わりについてお話しさせていただきます。
うたといますと、いつの時代も生活と密接に結びついてきました。歌っていつも身近にあったんですね。大学の時に民俗学の先生が「人は言葉を覚えるより先に、歌ってたんだよ」とおっしゃって、「あ、なるほど」と思いました。言葉は意味が生まれていく前には、音の高低とかの抑揚でコミュニケ−ションしていたのではないか、ということであれば、それは言葉でなく歌だと捉えてもいいのかなと思いました。その時以来、歌はコミュニケーションの手段、人に伝えてこそのものだと思って歌ってきました。
生まれてから小学校くらいまでは、母がテレビが嫌いで家にはテレビがありませんでした。そうすると流行歌が一切私の中に入ってきません。父はその当時ザ・ナターシャセブンを主として、フォークやロック歌手のコンサートミキサーをやっていました。ナターシャとの関わりが深かったので、ドライブに行くような時もナターシャのテープがずっと鳴っていました。それは単にBGMでかかっているというものではなくて、家族全員が全力で一緒に歌う、というものでした。ドライブと言えば歌うというのが我が家では普通のことだったんです。
ちなみに、父はもともと高校、大学と合唱をやっていまして、兄も音楽が好きなんですが、母だけが縁がなかったようで。
ナターシャの曲というのは必ずといってよいほどハーモニーがつきます。幼少の頃に触れていた音楽にハーモニーが当たり前にあったというのは、結果的に自然に自分の中に残るものとなり、恵まれていたなあと思っています。
小さな頃は、自分でいうのも何ですが、とてもかわいらしかったのです。それで近所のおばさんが「草ちゃん、かわいいよ」といってくれたのに、「うん、わかってる」と応えたのです。(かわいくないね、と親は思ったものでしたが)。(自信たっぷりだったんだ)。
いやいや、年相応におバカな面もあったんです。ある時傘を買ってもらって、それがとてもお気に入りでいつも持って歩かないと気がすまなかったのです。まだ背が小さかったのでずっと引きずって歩いていました。母と一緒に兄の幼稚園にお迎えに行く時もそうでした。雨の日もレインコートを着て引きずっていたくらいです。で、先が削れちゃって雨が漏るようになってしまいました。
春日部の武里に引っ越してきて、兄はピアノを習い始めました。それで「僕も習いたい」と親に言って習い始めました。やってみると、思ったより面白くなかったんです(笑)。でもなぜか自分からやりたいと言ったことを覚えていて、自分からやめたいと言ってはいけない、と自分で決めていました。そして小学校6年の時武里から粕壁に引っ越しまして、それで「残念だけどピアノのレッスンには通えなくなっちゃった」と、母に満面の笑みで話したものでした。そんなピアノレッスンでしたが、楽譜に親しむことができたこと、今も曲がりなりにもピアノに触れること、はありがたいことです。
幼稚園はキリスト教の幼稚園でした。ですから当たり前に賛美歌を歌う、クリスマス・キャロルを歌うということがありました。今合唱をやっていますが、西洋音楽の源はキリスト教音楽なんですね。長じて様々な合唱曲に触れて、「ああ、小さい時に唱っていた言葉はこういう言葉だったんだ」と結びついて、とても共感が持てたことは良かったと思っています。
とにかく小さな頃はナターシャ一色で、小学3年でテレビがきたのですが、見ても良いのはニュースと親が見ているものくらいで、自分からこれを見たいということもありませんでした。小学5,6年生頃クラスで「ちびまるこちゃん」が人気でしたが、全くわからないので見たいという気も起こりませんでした。音楽的にはナターシャで育ったようなもので、学校で習う歌もありましたが、世の中一般の子供の音楽体験とはかなりかけ離れていました。20代の頃ナターシャの歌をうたったりすると、「お前、何でそんな古いの知ってるの」みたいな言い方をされました。
小さな頃に一番好きだったナターシャ・セブンの子守歌があります。「父さんの子守歌」という歌です。今の時代にも大事なメッセージを持った曲です。子供ができるようなことがありましたら、聴かせていきたいなあ、と思っています。ちょっと歌ってみます。
本当に生きている子供たちが走り回る土が無くなってきている時代ですから。福島の子供たちは住んでいたところさえ追われて戻ることもできずにいます。外で遊びたい子供たちを外にやることもできません。ここらの川もとっくの昔に泳げなくなりました。
中学校に入ったのですが、走るのが遅いので運動に苦手意識がありました。でも運動できる子はかっこいい、というあこがれの気持ちがあって、やってみたいという気持ちはありました。それでバレーボールをと思ったんですが、運悪くその中学にはバレーボールのクラブがない。さてどうしよう、特に興味のあるものもないし、だけど何か入らなければならない。それでとりあえず科学部に入りました。
兄は当時吹奏楽をやっていて、私の1年の時の担任が吹奏楽の顧問でした。「三好の弟は絶対吹奏楽に来ると思っていた、なぜ入らないんだ」といわれて、さしたる理由はなかったので「入っても良いんですけど」と言って、科学部の顧問に「吹奏楽にはいるので、科学部はやめます」と言いに行きました。そうするとその先生が「お前は自分で選んだんだから、1年は続けなさい。2年になったら好きにしたら。」「なるほど道理だ」と1年は科学部にいて、2年に吹奏楽部に入ろうとしたら、顧問の先生が異動になりました。で、兄も卒業していることもあり、吹奏楽部に入る強い理由が無くなってしまい、吹奏楽はやらずに今に至ることになりました。当時の顧問の先生からは、いまだに「お前は吹奏楽をやっているはずだったのになあ」と言われます。
その吹奏楽の先生の音楽の授業で、何か好きな歌をうたいなさい、という時がありました。ところが私は世間の人が知っている歌を殆ど知らないのでうたう歌がない、みんなはその当時の流行り歌をうたう中で、中に一人フォーク世代の曲を知っている子がいてそいつと「神田川」をうたうことになりました。
その頃ですが、これは父のギターで前はプロの方が弾いていたのを譲ってもらったのですが、家に転がっていたのです。それでギターでもやってみるかとなりました。その頃のはやり歌は結構弾くのが難しかったのですが、ところが私が知っていたフォークは「誰でもうたえる」シンプルな曲が多かったのです。特にナターシャの曲なんかはコードを3つも知っていれば弾けるというほどでした。
その中でFのコードというのでみんなは挫折するんです。人差し指で6弦全部を押さえなきゃならないのですが、力がないので押さえきれなくて音がちゃんと出ない。みんなそこでめげてしまうのですが、私は音が出ようが出まいがめげることはありませんでした。めげないでやっているうちにそこそこ出るようになりました。
それからひたすらギター片手にフォークを手当たり次第うたいました。父や母が知らないような曲もうたうようになりました。誰かに聞かせるとか、かっこよく見せるとかの動機はなかったので、暗いうたが多かったです。山谷ブルース、とかね。ナターシャの曲は明るいのが多かったんですが。
高校に入ってようやく合唱と出会います。でもすぐではなくて、やはり運動をしてみたいというあこがれがありました。そのころはちょっと変わったところで弓道をやりたかったのです。かといって弓道部のある高校を選ぶというほどではなく、受験に対してものんびりしていて、入ったのは加須の高校でした。電車通学をしたいと思っていて、それと男子校は敬遠してましたので、共学の学校に入りました。
でも弓道部はありませんでした。当時兄は合唱をやっておりました。また父も学生時代に男声合唱をやっていたので、じゃあちょっとのぞいてみるかと、普通は合唱部なんかに自ら声かけるやつなんかいないのですが、「音楽部の部室ですか」と訪ねていき、練習見学をして入部を決めました。
顧問の岡留先生は合唱に非常に熱心で、今ではすっかり有名になりましたが、京都に合唱の楽譜の通販会社で「パナ・ムジカ」というところがあったのですが、もともと手に入りにくい海外の合唱楽譜をこの会社は輸入していました。岡留先生は毎年この楽譜屋さんに買いに行かれてたらしいのです。毎年何万円もつぎ込んで海外の楽譜を買い、私たちにふさわしい曲を探しておられたんだと思います(私も今そうしていますから)。
その中で、現代の作曲家が書いたミサ曲があって、それをうたった時が私が合唱にはまった時です。小さな頃にキリスト教の幼稚園に通っていたので、例えば賛美歌「天なる神には」美しい旋律で大好きな賛美歌なんですが、小さい頃は意味なんかわからないまま、声張り上げてうたっていたわけです。今振り返ると、ミサ曲の2番目に「グローリア」という曲があり、これは神の栄光を讃える曲ですが、歌詞はラテン語で、日本語の意味は「いと高きところの神には栄光を、良き志を持つ人々の地には平和を」というようなことです。この意味が先ほどの賛美歌の歌詞になっているわけです。その時「ああ、そうなんだ、あのときの賛美歌の歌詞の意味はこういうことだったんだ」と結びつくと、何となく人よりわかった気になります。
私は父の性質を受け継いで蘊蓄たれですが、「知らない」ということを恥だと思っています。人より知っているということがすごく大事なんです。普通、高校で初めてラテン語に触れて面食らうんですね。しかし私の場合は日本語と見比べて「こういうことか」とわかったりして、そこから興味がどんどん広がっていきました。キリスト教に関する書物も読みました。そうするとまたわかることが増えていって、現在も宗教曲を指揮することは、私の大事な柱になっています。
宗教ってなかなか難しくて、宗教くさい話をすると煙たがる人がいます。宗教音楽とかに傾倒しすぎると難しかったりします。それをどうやって指揮の中で伝えていくのか。もっと「神さま」について語りたいけど、私自身は信仰を持っているわけではありません。クリスチャンではない、だけど伝えたいことがある、という葛藤を抱えながら話をしています。
そういう中でいろんな瞬間に様々な出会いに恵まれているな、と感じる時があります。その中に音楽部の部長をやっていた大熊という男がいます。彼は中学から合唱をやっていました。こいつも割と蘊蓄たれでした。で、こいつには負けてはならじとなるわけです。ただやつは中学から合唱をやってきたのでかなわないのです。それで、彼は当然中学で混声合唱をやってきたので、父が大学の頃やっていた男声合唱を逃げ道とすることにしました。
違うところで勝負しようとしたわけです。よく言えば切磋琢磨で勉強に精を出したのですが、それは結果として良かったです。合唱は興味が次々と湧いて、知識も技術も向上しました。そうするとますます楽しくなってどんどんはまりこんでいきます。
高校では、放課後の本ちゃん(本練習)はもちろん、朝練、昼練もやりました。楽しくて仕方ないので、全然苦痛じゃないんですね。
ポップスは音楽が最初にあって、言葉が後からつく、という場合が多いのですが、合唱の場合言葉が先にあります。宗教音楽でいえばお祈りの言葉ですが、詩人の作品などに共感をした作曲家が音楽を付けます。その曲を良いと思った歌い手が、そこに色を入れてお客さんに伝える、大変な伝言ゲームなんです。
私は言葉をどうやって伝えるかが一番大事だと思っています。指導をする中でも、ただメロディーをうたうとか、ハーモニーをきれいに聴かせるとか、それももちろん大事なことですが、言葉がよりクリアーに伝わっていくことを大切にしています。
もう一つ合唱にはまったきっかけに、キングズ・シンガーズという男性6人のコーラス・グループがあります。そのアンサンブルがうたう16世紀のイギリス・マドリガルという、その時代に流行った世俗曲をうたったCDがありまして、それをひたすら聴きまくってはまりこみました。闇雲に聴いてどんどん吸収していきました。ですからいまだに私はルネッサンス時代の音楽が好きです。
今日本番があったのですが、それは「若葉の会」という合唱ではなく、ピアノをやったり、ソロをやったりするグループの発表会だったのですが、私が指導している「Cache-Cache」も一緒に唱いませんか、とのお誘いがあったのです。
そこで子供たちのグループが二つ出ました。その子たちがうたや踊りをやりました。私はそれを見ていて、合唱人たちが学ばねばならないことがあると感じました。大勢がパフォーマンス中にフォーメーションを変えるときすれ違いますね。その時は自分の振りをしながら、相手との距離感をつかんでいなくてはなりません。でないとぶつかって痛い思いをしたり、転んだりします。それを幼稚園から小学校高学年くらいの子供がちゃんとやってのけるのです。周辺視野が広いわけです。
これに対して、歌っていうのはややもすると入り込めば入り込むほど良いという、きらいがあります。ソロだったらまだそれでも良い、だけど合唱となると人と合わせる作業が必要です。違うパートの人とは、その人との距離感を保ててはじめてハモれるわけです。
合唱団ではちゃんとお互いが見えていると、それだけでハモり方が変わってきます。ただ同じ道をたまたま歩いている、というのではなく、お互い一緒に歩いているな、と思うだけで心の感じ方が変わり、音のハーモニーの質・雰囲気がそれだけで変わります。こういうことをうちの合唱団が学んでくれたかしら、と次の練習の時に聞いてみようと思うわけです。
歌うって体育会系なんです。体を使いますから。それでいて文科系なんです。心をつかいますから。その両面を持っているので、およそどんな分野の先人たちの言葉も必ずうたに生かすことができます。ですから何を見ても楽しいんです。
以前テレビでゴルフのレッスンの番組を見たことがあります。脱力が大事だということなんです。歌でも体の力を抜くことは大事です。くにゃくにゃと体操で脱力して、そうするとヤードが20,30伸びるんです。歌でも声を遠くに飛ばすのには正しい脱力が欠かせない、ということがあります。こういうことをゴルフから実感できました。
また、紙飛行機があります。私は声は紙飛行機だと思っています。紙飛行機を力任せに投げると、すぐ墜落してしまいますが、すーっと投げると一番遠くまで飛びますね。そういう声の出し方をしなさいよ、と教えています。
高校卒業する頃には、大学でも合唱するぞと思っていました。合唱のために大学に行くという感じでした。野球で有名な東京六大学がありますが、合唱でも東京六大学合唱連盟というのがありまして、そこが今年で61回になる演奏会をやっています。大学に入ったら六連で歌ってみたいな、と思ってました。六連といっても全部がうまいわけでなく、当時は早稲田、慶応でした。でも私は慶応ボーイという柄ではない、じゃ早稲田だ、とそれだけの理由で早稲田を選んだのです。
でも、予定通り早稲田からは丁重にお断りが来まして、1年浪人生活をすることになりました。浪人といっても勉強が嫌いなので、予備校にも行かず、宅浪といえば聞こえは良いですが、していたことはドライブでした。ですから当然学力も1年目より落ちます。それで2年目は幅を広げて、最終的に受かったのは明治の夜間でした。
入学式では明大グリークラブが校歌を歌うのを聴きました。正直がっかりするようなレベルで、どうしたものかと思いました。でも自分がうまくすればいいのだ、とすごく生意気な視点で入部しました。 練習見学に行った時、連休明けの六連に向けての練習をしていました。その年は委嘱新曲の発表の年でその曲の練習でした。その曲の作曲者が、これも巡り合わせといいますか、いまだに私はその方が指導する合唱団に所属しているのですが、松下耕さんという方で、作曲者としても指揮者としても世界のトップを行く一人です。
松下さんがその時書かれた曲は、「Cantate Domino」、日本語でいうと「主に向かって新しいうたをうたえ」という宗教曲でした。私がびっくりしたのが、松下さんはその時ちょうどハンガリー留学から帰った直後で、沢山ハンガリー音楽に触れたこともあったのでしょうが、ハンガリーの香りがする曲でした。私は当時ハンガリー音楽のことは知らなくてどこの国の音楽かわかりませんでしたが、日本人でこんな音楽を書く人がいるんだ、と驚きました。その魅力が感じられただけでも幸せだったと思います。
後輩たちが新しい曲について、どんな曲が良いか相談しにくるのですが、その時松下さんの「子猫物語」という曲をうたわせたらどうだろうと思いました。「仔猫物語」って同名の映画がありますが、映画の方も谷川俊太郎さんの詩を底本にしているようです。これも東欧の香りがする曲で、すごく面白くてぜひ歌わせようと思いました。
それで大学1年の時、ちょうど新作の指導に来た松下さんに、質問と「指導に来てくれませんか」との相談に行きました。松下さんは面白がってくれて「自分の合唱団で歌ってみないか」と誘ってくれました。男声と混声とどっちが良いと聞かれて、大学で男声をしていたので混声をといって、いまだに所属してます「室内合唱団VOX GAUDIOSA(よろこびの声)」に入団しました。そこでまたコンクールに出るようになって、そのころこの合唱団は上り調子で全国大会にも進出して、3,4年続けて金賞を得ていました。学生時代にそのような力を発揮していた合唱団にいられたのは幸せだったと思います。
4年生になると就職活動となるのですが、幸せなことに私はその経験がありません。事務能力はある方だと思っています。マーケティング会社の仕事をしていたこともあります。たいていの社員よりは早く仕事を回していました。仕事はできるんだけれども、一方で飽きっぽいんです。何かをはじめて習得するまでは面白くて一所懸命やるのですが、習得するとこんなもんか、と思ってしまいます。
じゃあ、飽きないものって何だろう、それが歌だったんです。歌だったら一生の仕事にすることができるんじゃないかしら。自分の性格の問題としてですよ。歌を仕事にするのは社会的には大変ですが、性格的にはこれ以上のものはなかろうとうたを仕事にすることにしました。大学を出る時に合唱団を作り始め、曲がりなりにも報酬をいただいて指導をするようになりました。
歌をやっているといろんな出会いがあります。特に合唱は一人ではできませんから、そのことも良かったですね。高校の同級だった大熊君が後輩たちにいつも「この本番で歌う人と一緒に唱うことは二度とないんだよ」と言ってました。仮に合唱団員は同じ人を集められても、お客さんまで一緒ということは不可能でしょう。それがコンクールであっても、まさしく一期一会で二度とその時間は戻ってきません。だから「今日失敗してもいいや」ということはあり得ないし、ここに集うことができたのはまさに奇跡的なことなんだよ、と彼はいいましたが、これは本当にすてきな考え方だし、大事なことだと思いました。私もいろんな所で言うようになりました。
話は変わりますが、キム・ウォンジュンさんという韓国の方がおられます。韓国の民族的な歌をうたっておられる方です。「うたごえ協議会」という歌声運動に端を発する団体がウォンジュンさんを招き、各地で「願い」というヒロシマの原爆をテーマにした歌の4番を各地で作り、ウォンジュンさんとうたおうというコンサートを行いました。各地で合唱団が結成され、その合唱団を指揮してほしいというご縁がありました。するとまた縁がつながって、アフガニスタンの子供たちを呼ぶから、そこで一緒に唱う日本の子供たちを指導してくれ、という出会いがありました。
アフガニスタンの子供たちは移動サーカスを見せることになっていました。アフガニスタンは娯楽のない国で、子供たちのサーカスは大きな娯楽です。子供は教育を受ける場がありません。サーカスに来ればそこで同時に教育を受けさせられるし、子供同士でつながるというネットワークもできます。特に女の子は家の外に出られません。衛生状態も悪いので、手を洗うとか蚊に吸われないようにする、とかの寸劇で衛生教育も行われます。
日本公演ではそのようなサーカスや寸劇とともに、一緒に歌いましょうというステージもありました。日本の子供とアフガニスタンの子供は基本的には出会う機会はありません。言葉の問題もありますが、子供たちは言葉なんかすぐ越えてしまいました。お互いに言葉を教えあったりしながら仲良くなります。それで一緒にうたをうたいます。「友達になるために」というシンプルなうたで、「友達になるために」。
すっごいすてきな曲だと思うんですが、これはアフガニスタンの子供たちから日本語で教わったんです。友人のNPO理事長の話によると、以前日本人に教えてもらったということで、その歌は逆輸入されたのです。この歌は今回の日本公演のテーマソングのようになりました。NPO理事長は「トモダチになるために」という本を書いています。そんな曲とも出会ったりしてきました。
アフガニスタンのことは戦争で大変だな、としかわからなかったのですが、この子たちに出会ってから思うところが大きくなりました。
このイベントに関わっているユータという人が言っているのですが、「世界を平和にするのは簡単さ。世界中に友達を作ることさ」。友達のいるところはやっぱり気になります。心痛めます。世界中に友達ができたら、争いはあるかも知れないけれど、殺し合うことはずっと少なくなるではないかしら。昨日までの友達が殺し合うのが戦争なんですが、甘いかも知れませんが、彼の言葉を大事にしたいと思います。 人と人の縁は大事だし、今日もこのようにお話しさせていただいたのも、こういう縁がなければお会いできなかったでしょう。本当に出会いは“奇跡”だと思います。
その奇跡を大事にしたいと、アフガニスタンの行事の後作った曲を最後にうたいます。「奇跡」というそのままズバリの曲です。
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