掲載日:2013年10月13日
お題知的障がい児を持つ親の会の「入間市手をつなぐ親の会」と、息子が就学の時に3人の親で立ち上げた「くれよんの会」という2つの親の団体で活動しています。もうひとつ、くれよんの会の有志で「ぴーちく隊」というのを作り、親や本人からの相談を受けたり、理解を広める活動をしています。
息子の障害がいに気付いたのは、親はだいぶん後です。
周りに自閉症の子は、全くいなかったので、親にもその情報はありませんでした。なん語がなくて、発語が2歳9か月で、パパっていうのが最初の言葉らしい言葉でした。芸もなくて、ただあやせば良く笑う子だったので「男の子は発達が遅いよ」など、周りの声があって、全然心配していませんでした。
一歳半頃から、それまで合っていた目線が合わなくなってきたんですね。多動で、呼んでも振り向かないとか、どこまでも走っていっちゃうなどが目立ってきました。部屋の中で天井の明かりを見てくるくる回る行動も、この頃でした。1歳年上のお姉ちゃんがいて、その子を育てている時となんかこの子は違うよねっていうのは、親の中で、ずっと、フツフツあったんですけども、確証がないままでした。
1歳半の発達検診の時に、要チェックというような事だったと思われますが、「後で残ってください」と言われ、2歳過ぎの時に、「すくすく教室に入りませんか〜?」「発語、どうですか〜?」と声がかかって、「あっ、この子はもしかしたら発達障がい児なの?」っていうのをイヤでも考えるようになってきたんですね。
幼児期になると、普通の子と違うというのが明確になってきて、外で遊んでいてのどが渇くと、這いつくばって地面の水たまりの水を飲んじゃうとか、上の子と行動が全く違ったし、「なんなんだこの子は?」っていうような状態でした。パニックは、この頃から多くなってきました。
当時、パニックがほんとにひどかった子なんです。
特に音に過敏で、例えば、ピストルの音など突発的な音にパニックになることがありました。パニックの中身は人それぞれだと思うんですが、うちは、とにかく激しかった方なので、1年生から3年生の頃っていうのは、担任の先生も、とっても苦労されてましたね。
自閉症という分野の理解は、今は情報も本もたくさんあるから読めばなんとなく、気持ちに寄り添って理解できると思うんですが、当時私も理解できなかったし、書籍を読み込んでしっかり理解するところまでは行っていなかったようです。だから、こういう風にしたら育ちますよなどと、先生方からの明確で的確なアドバイスには、このころの私は出会っていなかったですね。
パニックの様子ですが、はさみを持ち出して、ケガしないように自分の髪の毛を切るんです。見ていて怖いし危ないので、先生が止めようとすると、逃げて、今度は洋服の袖口をパチンパチン。半ズボンの裾とか、上履きのゴムのところをバチっと切ってしまう。何かをはさみで切らないとパニックを消化できないっていう状態で、それはそれはもう、見ていて先生方が気の毒だなという状況でした。はさみを隠したら今度は洋服を脱いで水につけるなど、パニックはず〜っと小学校の6年まで続きました。
この頃まだ、私はやっぱり、我が子の障害を受け入れきれていないんですね。この時期に所沢にある国立リハビリテーションセンターの言語外来を紹介されて、聴覚検査も受けました。でも家で奥の部屋にいてテレビで大好きなコマーシャルがかかると飛んで来たりしていたので、聴覚には異状ないなというのは分っていました。
ほんとに、当時は自閉症というところに行き当たらなくて。ある人から、リョウ君は自閉症っていう病気なんじゃないの?と言われたことがあって、それはどういう病気なのかを、国立リハビリテーション病院の言語の専門の先生に尋ねた時に、まだ何とも言えませんなどと、のらりくらりだったんですね。それで不信感を抱いてしまって通う気がしなくなってやめちゃったんです。
変な自信があって、もうそんな所に頼らない、私なりにとらえてこの子を育てるみたいな結論を出しちゃったんです。それが逆に、後々になると功を奏したのかなというところはありますが。専門機関に出会えないまま、このままでいいやって思ったものの、ずーっと迷いながらでした。
息子に厳しく接することもありました。例えば、悪いことをしたら罰としておしり3回たたくなどしましたが、いずれ息子は私より大きくなるだろうし、厳しくして嫌われた親のままで行くと、今度は私が殴られるかな、家庭崩壊になっちゃうかななどと、不安もよぎったりしてきました。だから、一方では、あなたの味方なんだよというのも伝えていかなきゃいけないと考えました。
その時思いついたのは、右手は遊ぶ手としてコチョコチョと楽しく楽しく、左手は罰を与える手で、悪いことしたら叩くとかをやっていました。もう、自分でどうしていいか分らなくて、思いついたのはそんなことでした。後々いかにそれが外れていたか気づくんですけどね。
この頃には、この子は、障がい名はもらってなかったけれど障がいがあるっていうのは分りました。じゃあ、好かれる障がい児って、どういうことなんだ?どういうことだったら、障がいを持っていても人に嫌がられないんだろうと、脅迫観念的に考える時期があったんですね。たまたま、西武遊園地に息子を連れて行ったときに、18歳くらいの青年がお父さんと一緒にいたんです。息子さんの方が大きくて、その人がお父さんの肩に肘ついて、お父さんの髪の毛をこうやってイジイジ・ワサワサしていたの。お父さんはだまーってそれを受け入れていて。その光景を見たときに、私の息子がこれでいいのか?こういう風な人になってもOKなのか?と、自分に問いかけたんです。私は、嫌だと思ったんです。今からきちっと取り組まなくてはいけないと、強く思いました。
挨拶はできないより出来た方がいいとか、下品じゃだめだとか、ある程度品よくとか、清潔感とか、特別じゃなくて、ごく一般的な範囲でいいので、障がいを持っていても、そんな子になって欲しいと思いました。ある部分は厳しくしつつ、嫌がられないようにするにはどうしたらいいかを考えながら接していた時期です。この子は話せるというのがあったので、家庭内では小学校の時から「ですます」を使える子どもにしようというのが私の目標にありました。
将来、仕事をしてもらおうというのもありました。今は障がい者就労も雇用もすごく追い風が吹いていると思うんですが、当時は障がい者就労の情報はなかったし、子どもを育てている時はそこまで調べる余力もなかったですね、でも、ぼんやりとですが、ある程度この子の能力を発揮してもらって、ある程度は稼いでもらって、余暇も充実させたいというのは、ありました。それで家庭内では全部、「おはようございます」「ありがとうございます」「お願いします」、こういう時にはこう言うんですよと、ですますを使った言葉であの子に教えていきました。
中学部で専門医との出会いがありました。小学校6年の時に自閉症という判定をもらったのですが、どういう風に成長するんですか?と聞いても、専門医から的を得た答えはもらったことがありませんでした。それで、ちゃんと専門医に行こうという気持ちになれないままでした。
そんな頃、国立の秩父学園に鳥取の方から園長として来た方の、ノースカロライナのティーチプログラムというのを勉強されていた小児精神科医のセミナーを聞いて、私が持っている情報の中では今までとは違うなと思ったんです。ちゃんとストンと自分のものにはならないけど、この人は今まで出会えた人と違うことを言っている、どういうことを言っているんだろうって、引っかかったことが良かったな〜って、後々になって思うんです。
セミナーの後にすぐ、くれよんの会に講演に来てほしいと交渉しました。その時に自分の気持ちが、訳がわからないなりにブワーって(笑)盛り上がるのを感じました。今でも、その先生とは繋がっています。ありがたい縁をいただいたな〜って思います。
ティーチプログラムというのは、どうも誤解を招くので、今は一切出さないようにしています。カードでロボットみたいに動かすから嫌い!などと、そんな言われ方をしたことがあるんです。でも、私のきっかけはそこだったし今でも的を得ていると思っているので、今日は敢えて使いました。この先生と出会ったことで、息子の特性と世界観っていうのを、2〜3年の時間がかかってストンときたかな〜、でもやっぱり簡単じゃなかったです。本人からの発信が言葉ではなく、パニック行動なんだなと色々勉強してやっと分りました。
例えば、息子を買い物にスーパーに連れて行きます。そうすると、息子は音に過敏なので、耳を塞ぐんですよ。私は「手を取りなさい!」と腕をとる。息子は嫌でしょう、だから片一方の手と肩で耳を押さえて、おかしな恰好で歩くんです。
外来でこの話をしました。
「音を我慢させたい、どうしたらいいですか」と。療育の先生が「お母さんは蛇が好き?」って聞いてくるから「いや、嫌いです」。「何回練習したらつかめるようになるの?嫌いな蛇を」と言われ、「嫌いな蛇、つかめません!」って言ったら、「リョウ君の音がイヤっていう行動はそれと同じなんだよ」と言われました。
「それってどういうこと?」「そんなにイヤなことなの?」…。
私は我慢させたい。普通に歩きなさいと言う。でも、そういうことじゃないんだと。ほんとにストンとおちるまでには長い時間がかかりましたが、私が最初にいただいた忘れられない言葉です。その時教わったのは、我慢させるんじゃなくて、その子にどういう支援があったら、その場をしのげるのかと肯定的に考えなさい。なんとか我慢させようとか、静かにしなさいとか、お母さんの脳は全部否定形でしょ?肯定の考え方をする脳に訓練しなさいって、言われました。
一つ一つ課題を頂くたびに、それはどういうことなんだろう?と、それはもう嫌というほど考えさせられました。答えを持っていくと、そうじゃない!ってね。厳しい先生でしたが、食らいつけて行けたのでありがたかったなーと思います。息子はパニックが多かったし、問題行動がたくさんあったので理解できていなかった、だから食らいつけたのかな?
言葉で通じないなら、目で理解する能力はあるんだから視覚的な支援を考えなさいと言われました。それを家庭に持ち帰ってやってみるわけです。例えば、息子の熱が出ると、親が冷たいタオルを頭に乗っけて薬飲ませて寝せていました。ある時、学校から帰って来て自分でタオル乗せて寝ていたんです。乗せているもの見たらベランダの手すりを拭く雑巾です。「ああ、この子は、タオルの使い分けはできてない」と、解ったわけです。
そこで視覚的にと言われた課題を思い出して、1才上の娘が絵が上手だったので、絵を書いてもらって貼りました。布巾には皿を拭く、バスタオルには体を拭く、顔を拭くタオルには顔を拭く写真を貼る、熱が出たらこのタオルでというふうに。「構造化」という言い方をしますが、それをしたらス〜っと入ったんですね。そうしたら、こちらも注意することもないわけです。そういう視覚的な支援を用意することで、あの子のキーッっていう感じが、ふわ〜っとなって行ったんです。肩にグッと力が入っていたものが、ぱあ〜って抜けていくように感じられたんです。先生が言ってたのは、まさにこのことだったのかと、実体験として、学ぶことになりました。
中学生になったころかな?風邪を引いた時に、私が買ってくる薬はいたうも1回3錠飲むものでした。ある時、熱があって調子が悪いっていうのが自分で分かって、小遣いでかぜ薬を買ってきました。ところが、一日1回1錠というのを買ってきたんです。それを飲んで寝ていましたが、寝かたが尋常じゃなくて、全然起きる感じがなく、おかしい。見ると、枕元にあった風邪薬がすでに3個空いていて、一度に3個飲んだとわかった。
どうしようかと思いましたが、とりあえず数時間してから判断しようと起きるのを待ちました。相当良く寝て起きて事なきを得たんですが、私は、よく待てたと自分でも呆れました。「ああそうか、教えてなかったな」ということで、薬箱には5歳未満と成人という欄があって、あなたは今〇才だから、こっちに入るんですよと教えました。命の危険という意味では、それが一番大きなことではありましたが、その時の失敗から見えたことを無駄にしないで、私も勉強ですけど、あの子の財産にもしてもらおうと考えるようにしています。
成功体験ばかりじゃなくて、いっぱい失敗もします。ですが、先回りして準備なんかできません。失敗して問題が起こって、そこから何が見えてくるのかな?と考える、そういう脳になりました。育ててくる中で言葉の意味が理解できないとか、こういうところがダメなんだなと分ってはいましたが、専門医からきちっと「こういう世界観を持っているんだよ」と教わったことが中学になるまでなかったんです。
自分の中で気付きはしたけれども、じゃ何から具体的にやっていけばいいのか、頭を整理するのに時間がかかりました。悩みはいっぱいあったけど、その場その場で困ったことを療育外来の時に持って行って相談して「それはこうしてごらん」っていうやり方を取っていたのですが、具体的に、この子にどうするとなったら、そこは、とっても距離があるんですね。そういう時は、一人で頑張って消化しようとは思わないことが大事です。周りで一緒に活動をしている別の親の方が気付いたりするんです。お母さん達は客観的で距離感があり、しかも、お子さんにかかわってるので、この子のタイプだったら、こういうものを用意すれば、きっとスッと入るなどとアドバイスが的確です。
中学2年の時は、まだ、お金の価値が解りませんでした。おじいちゃんおばあちゃんからお年玉3千円を千円札で貰って来ました。当時、折り紙に凝っていたんです。折り紙というのはマニュアルを見ながら折るので、息子は得意分野です。
ある日、千円札で折り紙を折っていたの。おまけにお札は長方形だから、正方形の折り紙に合わせて切ってたの。どうしようどうしよう、どうやって千円の価値を教えようか…。ちょうどその頃、うちの前に飲料の自動販売機(自販機)が建って、コインを持っているとジュースが買えると、コインをとっても大事にしていました。親が考え付くことは、100円玉を用意して千円札と「同じ。同じ。」と示して見せる。でも、同じって意味が分らない。概念として同じとか長いとか短いとか高いとか低いとかいう意味をこの子はほんっとにわかんない。苦労しました。
千円をいくら照らし合わせても全然伝わらなくて、どうしようと思ったときに、その自販機が千円札も使える自販機に変わったんです。千円札を使ってジュースを買ったら、大好きなコインがじゃらじゃら出てきて、それからは千円札を大事にするようになりました。あの子がストンと落ちる実体験ほど強いものはないですね。ストンと落ちて理解したものって、財産ですから。それからは、千円札欲しさに頑張る、お金に目覚めていくということになります。
中学になるまでは概念というものが育っていませんでした。例えば、色や物には名前があって、これはリンゴ、音声ではリンゴ、文字はどう教えたらいいだろう、嫌がられずにあの子に習得してもらう為にはどうしたらいいんだろう。外来に通ってきている仲間で取り組み、「じゃあ、こういう風にやってみよう」「こうやってみたら?」と、情報交換をしてやっていきました。
それから、一日をどう過ごすかっていうのも分らない子でした。毎朝起きて学校に出かけるまでに着替えて顔洗って、朝ご飯食べて、歯磨きしてという日課がありますが、息子は自分から動ける子じゃなかったですね。ひとつずつひとつずつ「出来たね」「出来たね」、「終わったね」「やったね」と、本人の達成感というところを育てていきました。本人の気持ちを育てるには、私がそういうところを意識しなきゃいけないんだというのも、気づいていきました。私の頭の中がちょっとずつスッキリスッキリするにつれ、息子も混乱の中から抜けてだしてスッキリしていった時期でした。
将来仕事をした時に、たとえば、「引き出しの何番目に入っているよ」って言われたときわかるようになっていてもらいたいと思って、"ワーク"という時間を作って取り組んでいきました。引き出しの上から2番目とか3番目とかシールを張って、大好きな物を引き出しに仕込んで。「リョウ君、引き出しの何番目にキューブチョコが入っているので、食べていいですよ」と言うと、おやつが欲しくて取り組むわけです。そうやって課題を一つやったらご褒美が食べられるとやっていきました。
駆け引きして演じるのはとっても上手になりました。何とかして、あなたの為に覚えてほしいんだよ、覚えたらあなたの為なんだよっていうところを伝えたかったんです。一方的に押し付けると、ぜーんぶはじかれたし、気持ちに寄り添って取り組んでくれないし覚えてくれないんだなというのも、すごく教わりました。
将来を療育者に相談した時には中2になっていました。働いたらお金になるんだっていうのを、そろそろやっていいんじゃないの?と言われたので、「働いてか…じゃあどうしようかな〜」と思って、どうせだったら家のことをやってもらうことにしました。家の中のあらゆることを全部、5円10円30円50円、60円と値段をつけて仕事をしてもらう。それをやってもらったら、見事にドンピシャと、はまりました。(笑)この頃はあの子は楽しみがなくて、買うものといったら500円のコロコロコミック、あとは、オヤツだったりジュースだったりでした。お金が貯まったら「このDVD買いに行こうね」といっても、買いたいものは、絵カードだった写真だったりでした。
やがて、その都度渡すのではなく給料と考えて、月半ばに〆るとか月末に〆るとかした方がいいねと、療育者にアイデアをもらいました。それで、小遣い帳を付けるようにしたのですが、知的障害があっても、稼ごうという気持ちとドンピシャとマッチングするとすごかったです。空き缶潰し機を買ってきて、ベランダで潰して。主人が毎日ビールを飲む人で、350mlを本数たくさん飲むから、山ほど溜まるんですよ。24本が1週間で無くなるんですから。
空き缶つぶし1個5円としましたが、本人としたら稼ぎたいから足りないんですね。そしたらね、学校の帰りに草の中からも空き缶を拾ってくるようになったんです。でも、それはダメとも言えず、悪いことでもないしねえ…、一日に空き缶つぶしだけで60円ですよ。空き缶つぶし5円は失敗したな、高すぎたなと思いました。(笑)。
家族の洗濯もやってもらおうと思って、洗って60円、干して60円で合わせて120円です。そしたらね、枠組みを決めなかったから一日に300円400円平気で稼ぐんです(笑)そのときは、稼ぐ喜びを知ってもらいたいのでそのままにしました。洗濯1回60円にしたでしょ?取り込んでたたんだら60円にしちゃったの。小遣い帳に"洗濯60円、干す60円、取り込み60円と書いてある。
ある日ね、使っていない服も干してあって…。洋服をタンスから引っ張り出して2回洗って、2回と書いてあるんですよね。それはルール違反ですと教え、目を光らせないと暴走してしまうということがあって、ひとつひとつ、何か問題行動が起こったら考えて息子とやり取りするやり方をしていきました。いやほんとにね、この子がそんな風な知恵を持つなんてこれっぽっちも思っていなくて、そういうことがあるたび、「この子は、生きる力持っている」という確証にもなっていきました。
最終的に、高等部のころには最高16,000円稼いで、それってどうなんだろうと思いながら、そこのフレームつくりは出来ないままでした。それだって、洗濯は、「これが1回分です、今日は1回分しか有りませんよね」と確認してからやらないと、うっかりすると、なんか洗濯物ないかなみたいなことになってしまいます。自閉症の子って律儀なので、ほんとにありがたいことに真冬でも土日っていうと6時に起きて、ちゃ〜んと主人のシーツも私のシーツも外して洗濯して干してくれます。マニュアル作って教えてドリップコーヒー入れてくれたら30円、上手でね。トイレの洗い方も全部、写真撮ってマニュアル作って壁に貼って、その割に10円でちょっとケチったな、と思います。
当時それはほんとに、やりたくてやりたくて、稼ぎたくてっていう状況でした。但し、稼ぐことをあの子の自由にしては本末転倒なので、トイレは毎日はいいですというやりとりをして、折り合いをつけながらです。お風呂掃除ですが、お風呂の水が汚れてるのはどういう状況かというのがどうもあの子にはわからないみたいで、私がお風呂掃除の日はシールを貼っておいて、それを確認したら洗ってくださいという形になっています。
家の中にはその子が将来、仕事に繋げられる材料がゴロゴロしています。どういう支援があったら、本人が嫌がらずに家の中のことをやれるようになるか工夫して、やれたら褒めて、達成感を味わってご褒美を得てもらう。ご褒美は、成長の段階での取り組み方の違いはありますが、私は最終的にはお金だろうなと今でも思っています。稼ぐと広がっていくと思うのです。将来お金を手にして映画を見るとか、余暇も広がって行ってほしい。
CDはいつも借りていたのですが、売っているのがわかったら、発売日に買うようになりました。発売日って、その日はいつ?という不安感を持つんですね。見通しが持てないと、とっても不安になってしまう。最初のころは強迫観念的に、いつ発売になるんだとこだわっていました。「なんとかのCD…なんとかのCD…」って、つぶやくんですよ。それで、インターネットで調べてあげました。そのインターネットで自分の知りたいことが調べられると、インターネットにかぶりつくようになりました。
例えば テレビでFamily Martとパッと写ります。そうすると、写真のよう取り込んで、ちゃんとFamily Martとアルファベットで書ける子なんです。伊勢丹とかもすぐ書けるんです。アルファベットを書けるということは、それでちゃんと文字も認識出来るかなーと思って、取り組みました。
用意したローマ字の本は小文字でしか書いてない。パソコンのキーボードは大文字表示だから、大文字のアルファベットの一覧を書いてあげたんです。それを見ながら、例えば、「これ見てね。SEIBUSENN(西武線)ってやったら、ほら、西武線が出てくるよ」って言う程度に1回やっただけかな?そうしたらもう、全部、マッチングできて、そこからは、私なんかよりも使うようになりました。
ひらがなも「ひらがなビデオ」というので覚えて、数字もビデオで覚えました。更に概念は、家庭で好きな食べ物を使ってゲームにしたりしてやりました。息子は食べ物が好きだったので有りがたかったです。物を食べられない人も沢山いますが、何でもいいから好きな食べ物があるというのは、ご本人とのコミュニケーションの材料に使えるので貴重です。
自分が知りたいとなれば、例えば電車マニアですので時刻表はすっかり頭に入りますね。その割に、なんでこんな簡単なことが出来ないのかという部分もあって、すっごく能力のばらつきが大きくアンバランスです。それが自閉症と言われる分野の方たちなんだなと思います。
息子は全く対面がダメで、物も買えなかった。自販機はOKだけど、コンビニで買い物するのも後ろにへばりついているような子でした。例えば、映画は行きたい、でもチケットは買えない。
手順をマニュアル化して、@並ぶ A順番が来たらカウンターに行く B〇月〇日〇〇のチケットを下さい と書いた紙を用意しました。映画のチケット売り場で、私の後ろにへばりついてる息子に見えるようにその紙を出して、@〇〇 A○○ とか言いながら演じて見せたんです。そうしたら、「そのマニュアルがあれば僕も出来る!」と思ったらしく、2回目からは「書いてください。〇〇です。」と言ってきたので、同じように書いてあげたんです。その紙を大事に持ち「お母さん、バイバイ!」とかなんとか言って出掛けて行きました。私は車で先回りして陰に隠れて見ていました。そうしたら、それを見ながら見事に、ちゃ〜んとやってのけたんです。
それからは、映画のチケットとか、マックに行って物を買うとかいうのは全部、シーンに合わせて"やり取りの虎の巻"というようなカードを作っていきました。最終的には、リョウ君の「ヘルプノート」として1冊のノートにしました。書き加えることが出る毎に何冊も作り直しています。
高等部になってからは、練馬区の旭出学園という特別支援学校に行くことにしたので、中3の春休みに道順を覚える練習をしましたが、ピシャッと写真のようにとりこんで覚えてくれました。それまでも、例えば、フライングディスク大会で、駒沢オリンピック競技場に行ったら、帰りはタクシーに一人で乗るというんですよ。「いやいやいや、初めてだし一緒に帰りましょ」と言っても「一人です」と言い張るんですよ。
自信があるんです。視覚的な映像を巻き戻すから、間違えないんですよね。そういう能力は、いくつかの場面で見せられました。私の出身が福島なんですが、葬式があった時、一人で行くと言うんです。遅れたら大変なので、お願いですから、大宮で待ち合わせていきましょうと説得して…向こうはしぶしぶですよね。そこで、帰りはどうぞ一人で自由に帰ってくださいということにしました。自信が持てる事しかあの子は自分で口にはしません。だから、心配はありますけれども、信じてあげようかなと思っています。
何冊目かの"ヘルプノート"には、歩いていてトイレに行きたくなったら→コンビニを探す→レジの人にトイレを貸してくださいと言う。トイレが終わったら→「ありがとうございました」。駅でトイレの場所が分らない時は、→駅員さんを探して「トイレはどこですか?」、場所を教えてもらったら→「ありがとうございました」などというのが書いてあります。本当に使ったかは、聞いても答えてくれませんから、分りませんが。なんでもない他愛ないことではありますが、この虎の巻があると安心して落ち着いて行動出来るんだろうなというのは、その様子で分かりましたね。今は、ポイって放り投げて置いたまま、持って行ってくれてないんですが、当時はとっても大事に使ってくれていました。
それから、電車が止まることがあります。1、人身事故、2、信号故障、3、停電…この停電は最初は無かったものです。携帯は3つの機能だけというのを持たせていて、「小手指駅です。人身事故です」と連絡をくれるようになっていました。ある日、日高駅で停電事故があったときのことです。「停電です停電です」と、すごくパニクッて電話がありました。車内放送では停電でどうのこうの…ということだったと思うんですけど。そこで、「停電」と書き足しました。電車が止まったら、1、電車の中で静かに待つ 2、ホームに出られたらお母さんに電話をする とか、ほんとに当たり前のことを書いています。
赤ちゃんが嫌いで、赤ちゃんの泣き声とかがダメなので、電車の中に赤ちゃんがいたら、1、隣の車両に行く、2、次の駅で降りるか、次の電車を待つ と書いて、それはあなたが選んでいいよとしました。
息子は、我が家で飼っているメイという猫をすごく可愛がっています。息子は電車が大好きで、〇全系に乗りたいとこだわりがあって、ホームで40分くらい平気で電車を待つんですが、ある日、「リョウ君がね、ウロウロして、ちょっとあれ、いただけないかな」と他のお母さんから教えてもらいました。それも、結構な時間いたよと。それで、「ウロウロしたら、ゴリラみたいでカッコ悪いよ」と、親が言うんじゃなくてメイちゃんが言っていますというと、「あ、メイちゃんがですか?」と、聞き入れるんです。そういうのが有効なんです、面白いですね。
自分の好きなキャラクターとか、ウルトラマンが好きだったらウルトラマンが言っていますよでも、いいんです。仲間の中にも、そういう自閉の方がいるんです。知的に何でもない方ですが、自分の部屋のくまさんが言っているんですか?って、いまだに言うそうです。だから、「うん、お母さんは言っていません、くまさんが言っているんです」と言うと、スッと入ると言っていました。
息子はいま26歳ですが、アンバランスさを持ちつつ、ポロッポロッと未だに成長してくれていて面白いなーって思います。すかいらーく系のバーミヤンで、障害者雇用枠で働いて9年目です。有りがたいですね。これまでに本人に教わったこともいっぱいあるし、文章に長けていたら(笑)本1冊出したいくらいたくさんの出来事がありました。
小学校の総合学習とか、特別支援学校に共学支援ボランティアというのがあって、私は今、そういう方向けの講座に呼ばれて2時間枠で講義をしています。ある時、自閉の方のコミュニケーションの本をたくさん出している香川大学の坂井聡先生という方のセミナーを受けた時に、ピーチクパーチク王国の体験といのがあったんです。先生に「これ使わせてください。自分たちで台本考えますけど、ピーチクパーチクでやらせて下さい。」とお願いして、隊の名前をピーチク隊としました。それを引っ提げて、言われていることが解からないってどういう感覚なんだろうとか、言いたいことが伝わらないってどういう感覚なんだろうという疑似体験講座を、発達障がい疑似体験ということで、あちこちに出掛けてやっています。
障がいがあってもなくても、基本的に一人の人間だし、その人がどんなハンディでも人間らしく過ごす、地域で豊かに暮らしていくってどういうことなんだろうと、仲間でいつもいつも申し合わせてやっています。一人だと苦しいけれど、仲間が集まることで情報交換をして「今、こんなことに困っているんだけど」とか、「初めに、こんなことやってみたら?」ということを、今現在も続けています。
(終わり)
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